2015年08月03日 06:44
石膏デッサン、もう何年も描いていないが(何年どころか二桁年以上か)、今でもちゃんと描ける(と豪語しておく)はずだ。美術教育のなかでも古く、その存在を疑問視されることもある石膏デッサンだが、僕はきちんとした手順、正しい目的で行えば素晴しい美術教育のひとつの方法だと考えている。もっともまずいのは石膏デッサンという型を目的とし、一見上手く描かれた石膏デッサン群を目指すことで、そのことにはほとんど意味はない。極論を言えば上手く洗練された石膏デッサンを目指すことには、さほどな意味はない。ここで大きく、多くの美大受験は間違ってしまったのかもしれない。
石膏となっている元の型は、巨匠たちの彫刻やまたその模作、建築物の一部の装飾彫刻であったりするが、その中に内包される美意識、造形力、積み重ねられた伝統は、大きな力を持っている。それらを(手軽に)追体験できることは石膏デッサンの醍醐味だろう。ギリシャ、ローマ時代の巨匠たちやミケランジェロ、彼らの手の動きをたどるようにタッチをいれていく、彼らが造形した美しい人物像の神髄を垣間見る。そして彼らは決して動かない。動いてしまうのは我々の視点のほうだ。とくに木炭で描く石膏デッサンは、何度も消したり描いたりすることで、形を吟味し本質に近づけていくことができる。何度もトライアンドエラーを繰り返し、すこしでも巨匠たちの業に近づきたいと悪戦苦闘する。そのプロセスこそに意味がある。要領よく手際良く描かれた石膏デッサンに作品としての価値もなければ、そこを目指すことにはほとんどの意味はないだろう。
なぜ、今更ながらそんなことを思ったかというと、昨日のシルクスクリーンの作業がきっかけである。今回は、大学の先輩でもあり美術家である黒沼真由美さんが、成安造形大学の版画ラボを使ってTシャツにシルクスクリーンを刷りにきている。聞くとシルクスクリーン自体、ほぼ20年ぶりでほとんど作品としての制作もしたことがないということであった。にも関わらず、ある程度の手順に習熟して以降は、ほとんど何もアドバイスすることはなくなってしまった。素晴しいと思ったのは、常に道具のコンディションを最適に保ち、一番良いパフォーマンスが発揮できるタイミングを探ることができることだ。どこで版を掃除するか、いつ詰まりやすくなるか、どの段取りで進めることがもっとも効率がよいか。そんな諸々のことをいちいち指摘することなく、ほぼ失敗もなく数十枚を刷り上げてしまった。
美術のトレーニングは石膏デッサンが全てではないが、確実に多くのセンサーを備えることには役つ、形に対して、光に対して、陰影に対して、質感に対して、色彩に対して等々。そして、そのそれぞれのセンサーのグラデーションをできるだけ豊かに繊細にすること。
おそらくこれらのことは、どんな仕事においても、研究においても、学問においても、重要なことであろう。
きちんとセンサーの備わった人にとっては、初めてのことも久しぶりのことも、それほど苦もなく対処できる。それでも失敗や予期せぬことは起きるが、そこからの対処も素早く対応することが可能になる。
そんなセンサーを培うには、石膏デッサンというトレーニングは、なかなかに有効な手段なのではと思った次第である。
2015年07月16日 08:43
球技などのスポーツにおいて素振りは重要なトレーニングのひとつである。正しいフォームを繰り返すことで、理想的なスイングを実現することにつながる。毎日1000本とか繰り返せば、それなりに素晴らしい結果がついてくるかもしれない。しかし、それはあくまでも「素振り」ではということにすぎない。野球であればどんなコースにどんな球種がくるのか?どのピッチャーを想定しているのか?右投げか左投げか?様々な要素を組み合わせて、イメージトレーニングとともに素振りをするなら、何も考えない1000本の素振りよりも、考え抜いた10本素振りのほうが、おそらく効果的だろう。僕はただの野球好きで野球選手ではないので確かなことは言えないが、デッサンやクロッキーの場合であれば。ただ無為に枚数を重ねるより、工夫して考え抜いて完成させた1枚に勝るものはないと断言できる。
枚数をたくさん描いたから向上するか?と問われればイエスでもあるしノーでもある。枚数を描くことだけを目的としてしまうのは問題で、それは自己満足にすぎない。制限時間に区切られて完成しないままに枚数をを重ねるのも、あまり効果的とはいえない。受験デッサンの一番の問題はここにある。試験という限られた時間のなかで結果を出すには、段取り、ペース配分などが要求されるが、そればかりが洗練されていっても、6時間なら6時間、12時間なら12時間で達成できる結果しか残すことができない。手を速く動かすにも物理的な限界がある。人間1人ができる仕事量に大差はないだろう。そんなトレーニングを繰り返しても、完成と言える領域まで1枚を昇華させることは困難だ。モデルを使う場合は時間的制約がどうしてもあるが、石膏であれば何時間でも、何日でも、何ヶ月でも、何年でもポーズを取り続けてくれる。石膏デッサンは古いトレーニング方法と言われるが、1枚をじっくり完成させるのには適した方法のひとつである。
とはいえ短時間で描けるスキルも絵描きにとっては重要である。クロッキーはそれらを養うのに最適なトレーニングだが、短い時間であっても常に1枚を完成させる意識を持たなくてはいけない。5分でできること、10分でできることは、自ずと変わってくる。いつも同じやり方をしていたのでは、5分は10分の半分の完成度しか出せないことになってしまう。それではいけない。5分で出せる最大限の効果を考え抜かなくては。
考え抜いた素振りを毎日1000本もできれば、それは素晴らしい結果につながるかもしれないけど、さすがにそれはちょっと難しい。そして、もっとも大事なことは苦行になってはいけないということ。苦しさは何も担保してくれない。描くのが楽しくてしょうがない。どんなに描いても疲れない。そんな境地に達することができたら理想的かな。描くことを、作ることを楽しみましょう。
2015年06月30日 18:34
ゼミの授業で久しぶりに
Anatomy in Clayの教材を使って勉強してみた。2013年にロスアンゼルスで開催されたSVPで、この会社がブース出展しており、毎日のように通って粘土で遊ばせてもらったのが、この教材を知るきっかけだった。
右半身をゼミ生が、左半身を僕が担当し、90分ほど作業を進めたところである。
腓腹筋、ヒラメ筋、前脛骨筋など。
特に複雑な上腕につながる筋肉を、立体的な重なりを把握しながら理解することができる。粘土は比較的やわらかめの油粘土で、シャープな形は作りづらいが、手軽につけたり外したりができる。
大胸筋と三角筋の関係、脇を形成する筋肉群などもよくわかる。
この教材は少し値段は高いが、シンプルな造形で、骨格と筋肉を立体的に理解するには最適である。もともと医療系の教材という事で、内蔵などを作る場合もあるらしい。これからもどんどん教材として使っていこう。
2015年06月03日 09:14
前期のHiroさんの美術解剖学特別講義が、昨日で終了した。次回の授業は後期からである。2年前から2年生対象に座学『美術解剖学入門』を開講していて、連続した内容としてカリキュラムを組んでいる。ただし、『美術解剖学入門』は必修授業だが、Hiroさんの特別講義は選択制である。座学でも重視しているのは、名称などの知識を得ること以上に、形態と構造を理解し記憶することである。そのため、講義中も常に手を動かすことを求めている。骨格図をトレースし、レイヤーに分けたトレーシングペーパーに筋肉図を描いていく。骨のどの部分から始まり、どの部分で停止するのか。その筋肉をはどんな運動のために使われるのか。体表に影響を与える筋肉を中心に講義を進めているが、全6回の授業ではおのずと限界がある。あくまでも入門編ではあるので、より高度な内容を習得したい学生のために選択の授業を準備しているが、その部分を将来的に、さらに強化していきたいと考えている。
現状では美術解剖学を深く追究したいと考える学生は少ない。自分の表現と美術解剖学をどうつなげるかという部分について、こちら側のプレゼン不足も原因のひとつだと考えられる。何もリアルに描くことだけに美術解剖学が有効なのではなく、デフォルメされた人体、動物にも応用できる。
スケッチを中心にした現在の手法では、立体的な解剖学的把握が困難な面がある。例えば肩甲骨から上腕骨につながる大円筋は上腕骨の前方(腹側)につくが、棘下筋は後方(背側)につく、それぞれ上腕骨を違う方向にまわす役割を担うが、それを平面だけで理解し、実際のモデルの肉体から読み取ることはかなり難易度が高いと思われる。トレーシングペーパー上でレイヤーを変えていくだけでは実感できない、3次元の空間の中での交差、ねじれなどをどうすれば理解できるか。実感として得ることができるか。おそらく3DCGも補助的な役割しかなく、動物の解剖を通して観察したり、粘土で立体を作ったりといったトレーニングが必要になってくるだろう。それを実現できるようなカリキュラムを、近い将来、実施したいと考えている。
僕がいまやっていることは、何も特別なことはなく、美術解剖学という伝統的な学問大系を、どう学生に伝えるかを考えてきた結果である。まだ足りない部分も多く、急務なのは理想的な教科書を作ることだ。そして、後進を育てること。大学院のない今の本務校でどこまで実現できるかはわからないが、理想に向かってできるだけのことはしてみたいと思っている。
2015年05月18日 16:44
右側のクロッキーは10分で描いたもの、そして左側の解剖図は10分の休憩中に描いたものである。解剖図等をみながら描いたわけではないので、不正確な部分もあるかもしれないが、どういった意識でクロッキーやデッサンをしているかを示したものでもある。実際、このように観察しながら、考えながら描くのは、手間も時間もかかるのでクロッキーにはあまり向いていないかもしれない。僕の場合、その出っ張りは何なのか?骨なのか?筋肉なのか?脂肪なのか?そういったことを想像することが好きだし、それらを認識して把握し表現することに喜びを感じる。学生にはこういった方法が全てではないという話はするし、真似してもらいたいと思っているわけではない。
こちらは3分のクロッキーの解剖図を休憩時間中に描いたもの。さらに短時間で描いたクロッキーなので、正確さに不安があるが、短い時間であっても解剖学的な特徴まで捉えたいと考えている。
僕の美術解剖学の授業では、リアルで写実的な人体を表現するというより、動きのある、動く可能性を感じさせる人体を表現することに主眼を置いている。マンガやアニメーション、イラストレーションに応用できる美術解剖学を目指している。もちろん油画、日本画、彫刻にも役立つ。僕自身、まだまだ知識不足なところがあり、学生と一緒に描きながら研究を続けているようなものである。いつか決定版といえるような、美術解剖学の教科書を作りたいと考えている。出来るだけ早く実現しなくては。
2015年05月10日 22:25
現在、東京で開催されている
JunGi Kim Drawing Exhibition、展示を見にいけるかどうか微妙なのだが、リンク先にもあるドローイングの動画を以前見たときには、、その凄まじさには驚いたものである。全く構図をとらずに、下描きもせずに、躊躇なく修正することもなく描き進めていく。これをライブで見た人たちの感想も絶賛の嵐である。同じ空間にいることで、その凄みが何倍にも増幅することは想像に難くない。
しかし、本当にそれは絵を描くという行為として、そんなに素晴らしい事なのだろうか?
復元画を描く仕事は、資料が全てといっても過言ではない。間違えがあれば何度でも修正が必要になる。そもそもイラストレーションの場合、デザイナー、クライアントの要望に合わせて、何度も描き直すことが前提としてある。素早く描ける事は、作業において大きなアドバンテージとなるが、修正なく一発で描ける事にはそれほどの価値はない。資料を見なくとも頭の中に画像としてストック出来る事は、凄い能力だと思うが、人間というのは間違いを犯すものである。勘違いして記憶してしまうこともあるだろう。それもないほどの天才なのかもしれないが、調べて確認できることは、その場で確認したほうが二度手間にならず、仕事として正確な成果物に近づく事が出来る。僕は彼の才能を疑うわけでもなく、素晴らしいドローイング作品だと思っている。でも、同じことが出来ないからといって、失望することも、落胆することもない。特に学生にはそんな風に思ってほしくない。憧れるのは良いと思うが、多くの人にとって目指すゴールではないだろう。彼と同じことが出来なくても、絵の仕事はできる。画家やイラストレーターとして食べていくことはできる。
いつも板書で描いている内容を、下描きなく、資料も見ないで描いてみた。資料を確認していないので、例えば、仕事として出版物などには掲載できないスケッチだ。
上手くいかなければ、何度も線を引けばいい。最終的に正しい線が見つかれば、それを清書すればいい。それを可能にする画材もツールもたくさんある。自分にあった方法を見つける事が重要だ。
あまりに絶賛する評価が多いので、天の邪鬼にちょっと思った事を書いてみた。
2015年04月29日 00:32
先日のゼミの授業のときに、ペン画を描くときのあたりをどの程度とるか?という質問があったので、実際に描いてみたもの。
鳥のペン画を続けて描いているので、分かりやすく大きくカラスを描いてみた。あたりの線は鉛筆で、ペンはミリペンを使っている(鳥類系統樹マンダラの原画には丸ペンを使用)。
ほんとうにざっとしたものだが、下書きをあまり詳細に描くことはない。きちんとしたものが必要なときもあるが、そんなときはトレースを使う場合が多い。
そして、この日のゼミのお題は『ケルベロスの頸椎を考える』。
画面に映っている頭骨は大型犬のものだが、環椎と軸椎は人間のレプリカ。第7頸椎をつなげるという方法をとってみたが、どこで癒合させるかはデザイン上の大きなポイントかもしれない。あくまでも架空の生物なので、どこまで考察しても正しいか正しくないかということはナンセンスだが、もっともらしさにつなげるための思考実験としては面白いと思う。本当は犬の頸椎が一そろいあれば良かったのだが、残念ながら手元にはなかったので、解剖図を見ながらの作業だった。Twitterで少し友人とやり取りをしたのだが、頸部から頭部のボリュームを考えると、ハイエナのように上半身の強大なプロポーションになるだろうということで意見が一致した。これもいずれ全身の骨格図を描いてみたいものだ。
こんな感じのことを、前期のゼミでは続けていきたいと思っている。
2015年04月26日 23:48
今日は朝から
琵琶湖博物館へ、微生物の観察とスケッチに学生たちと行ってきた。
琵琶湖博物館リニューアルに伴うプロジェクトの一環で、主に琵琶湖の微生物を展示する「マイクロアクアリウム」の常設展示を、
成安造形大学の学生とともに作っていくというものである。その手始めとして、学生、担当教員ともに、採集から観察、スケッチまでを経験するという初回授業だった。
よく晴れた空の下、烏丸半島を湖岸へ向かう。正面に見えているのは比叡山だ。ここからの景色はとても美しい。
採集にはこのプランクトンネット使う。この採集器の形を見るだけで萌える。メカニカルな機構を持った道具というのは、なぜこれほどに惹かれるものがあるのだろう。
投網の要領で使うのだが、担当学芸員による見事な模範演技。ロープがしっかり伸びきり着水することで、より多くの微生物を採集するチャンスが増えることになる。この後、学生たちの投げ方や所作を観察していると、いかに多くの学生が話を全く聞いていなかったかがよく分かった。真似しないと何事も上手くならないのだけどなあ。
博物館に帰った後は、実体顕微鏡と生物顕微鏡を使った観察会。ミクロの世界の豊穣さ、様々な生物の形の多様性には、学生たちも関心を示し、歓声を上げて楽しんでいた。
琵琶湖のプランクトンでは最大種であるノロ(Leptodora kindtii)をスケッチ。
これがノロの眼球。顕微鏡では平面的に見えているが、実際には球体である。花びらのように見えている部分は透明の管状のもので、中心の黒い部分を放射状に覆っている。
ノロの全貌。この時期はまだ5mmほどだが、最大で10mmほどに成長する。
今回のプロジェクトは3人の担当教員がついており、僕が壁画、他の2名はそれぞれオブジェとレリーフ、シアター用の椅子を担当する。できる限り、学生にフィニッシュワークまでやってほしいので、僕はできる限り手を動かさないつもりである。知識的には僕もまったく白紙に近いので、学生たちと一緒に勉強しながら進めていきたい。
2015年04月16日 23:06
今日は日大芸術学部デザイン科テクニカルイラストレーションの授業。課題は「手のデッサン」である。解剖書からコピーした手の骨格図をトレースして転写し、その線をもとに自分の手をみながら肉付けをしていく。
もっとも重要な点は、人間の見かけの指の長さは、手の甲側からと手のひら側からでは違うということだ。手の甲から見た場合は、ほぼ骨格の関節の位置に特徴的な皺が現れる。しかし、手のひら側の指の皺の位置は骨格の関節とは対応していない。特に学生が間違いやすいのが、中手骨と基節骨の関節で、手のひらのなかにその位置がくることがなかな理解できない。試しに手のひら側から見たときの指の付け根を押さえて、曲げようとしてもらえれば分かるのだが、そこからは絶対に曲がることはない。そこは関節ではなく基節骨の軸の部分だからだ。骨折させない限り、そこから曲がることはない。
幸い先週描いた板書がまだ残っていた。
指を横から見たところを図解すると、よりはっきりと分かる。手の甲側と手のひら側では指にできる皺の位置がこれだけずれる。ほぼ一致するのは基節骨と中節骨の関節だけである。
手のひら側から見ると、指は手のひらの上の方から曲がることになる。これが手の甲側から見たときの水かきと呼ばれる部分にあたる。
学生にまじって、いっしょにデッサン。今回はミリペンを使って描いてみた。ステッドラーのピグメントライナー0.1mm。ここまでで60分ぐらい。
授業の最後でようやく手の甲側が完成。課題は手のひら側までなので、宿題になってしまった。毎年やっている課題のひとつである。