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2012年9月28日
レーピン展
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先日、渋谷のBUNKAMURAで『レーピン展』を見てきた。本物を見るのはおそらく初めて。ヨーロッパのどこかの美術館で目にしているかもしれないが記憶にない。
小さな画像で見ていると、極めて精緻に描かれている印象があるが、実物を見るとそのタッチは大胆で素早く、同時代の印象派の絵画に近いスピードで描かれている。実際、野外でスケッチをすることもあったらしい。
肖像画にも傑作が多いが、おそらく数日で描かれたと思われるものがほとんどだった。職業画家として効率の良い制作に徹しており、コストとの兼ね合いをきちんと計算していたと思われる。
だからといって、作品の質が低くなるわけではなく、その画面から発せられる輝きには微塵のゆらぎもない。
僕が良い絵画の条件と考えているものに、画面を見る距離によって、その絵の世界が変わって見えることというものがある。近づいてみたときに物質としての力強さを見せてくれる絵画は魅力がある。写真のように、近くでみても、遠くで見ても、そのイメージが変わらない絵画は、物質としての強さに欠けるように思うのである。
最新号の美術手帖の特集が『超絶技巧』であったのだけど、採算を度外視したコストと情熱を傾けることで達成できる領域には素晴らしいものがある。しかし、どこまでも本物と見まごうばかりの彫刻、近くで見て遠くで見ても印象の変わらない絵画、それらが見せてくれる世界に驚嘆はするが、僕自身あまり感動が長く続くことはない。
僕には彼らのような繊細な技術はないが、果たしてそこまでする必要があるのか、いつも疑問に思ってしまうのである。
レーピンは必要最小限の手数で最大の効果を得られるような画面を作っている。
社会活動、経済活動のなかで制作を続けるということは、そういった視点が常に必要になるだろう。
採算を度外視してもやっていけるのは、社会がまだ豊かな証拠なのだと思うが、いつまでそれが続けられるのだろう。そんなことをふと思ってしまうのである。
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投稿者 corvo : 2012年9月28日 19:36