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2012年6月 8日
『セザンヌ』展 国立新美術館
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セザンヌ展
本日、国立新美術館へセザンヌ展を見に行ってきた。100%セザンヌの作品だけで構成された貴重な展覧会である。しかし、公募団体展と会場が並ぶのはなんともいえない気持ちになる。かたや美術史上の巨匠であり、かたやお山の大将を生成するための集金団体展。これが同じ地平に並んでいて、使っている会場の構成も全く同じなのである。そもそもコレクションを持たない巨大貸し画廊を、国立で運営しているのだから、そんな状況があっても不思議ではない。
実はセザンヌはあまり好きではない。今回はどうして好きになれないのかを、確認するような鑑賞行為だった。
おそらくセザンヌは事物の内部構造にほとんど興味がない。今、眼に見えている世界をどうやって正確に描くかに重きを置いている。だから物の外側の事象のみに、その視線は集中している。
立体感、物と物との関係、空間感を描くことに腐心しているが、その内部構造にはほとんど関心を示しているようには思えない。特に人物画を見るとそういった印象を強く受ける。
彼の描く人物は、美術解剖学的正確さは追究されていない。皮膚や髪、衣服などの質感の違いも描き分けられていない。服の中に裸の肉体があるのではなく、服も肉体の一部かのような描写だ。それまでのアカデミックな表現に比較して、どれだけ革新的であったかは理解出来るが、好き嫌いだけで判断すると、好きにはなれないのである。
同じことから好きなれないのが、伊藤若冲。表面の微細な描写に興味はあるが、その内部構造までは関心がないように見える。身体性の欠如を作中に感じてしまうのである。一方、曽我蕭白には強い身体性があるように思う。彼の描く生物の全てではないが、切ると血が出そうな肉体の充実を感じさせてくれる。
今、雑誌などのメディアがこぞって押している「セザンヌ」と「若冲」に関心をあまり持てないということが、僕がメジャーになれないひとつの要因かも(笑)。
最後までセザンヌを好きになることは出来なかったが、素晴らしい展覧会であったことは確かである。6月11日(月)まで。
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投稿者 corvo : 2012年6月 8日 23:10