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2006年7月10日

仕事机の片付け

今日は一日かけて、パソコン周りの片付けをしようと思っていたのだけど、ワールカップの決勝戦を半分睡魔に屈しながら見ていたため一日のスタートが遅くなってしまい、またいろいろと片付けなくてはならないことも多く、結局夕方になってようやく始めることになってしまった。それでもとりあえず、モニターとキーボードの周りだけはすっきりしてみたのではある。
blog06071001.jpg
写真の左側が一応片付いた状態。それによってあふれた整理されていないものが、右側の写真に多数写っている。これらも含めて、明日はきっちり片付けてしまいたい。捨てなくてはいけないもの(捨ててよいもの)も結構ある。

先日、このblogでも少し書いた料理人の話なのだけど、行きつけの料理屋の大将にも聞いてみた。彼は僕よりも少し年が上で、夫婦で小さな料理店を営んでいる。「修業時代って、殴られました?」と聞いたところ、「もちろん、当たり前のように殴られました。」という答え。そして、自分も後輩に教える時、殴ったことがあるということも話してくれた。特に日本料理の世界なので荒っぽいのかもしれないが、口で言っても分からないことは、殴ってでも教えるしかないという。また彼の経験から、怒られるときに痛い思いや恥ずかしい思いをしたことは、決して忘れないし必ず出来るようになるものだとも言っていた。
そして、殴ってでも教えるのは、本当に見込みのある人間だけだとも。特に料理は刃物を使う職場なので、逆恨みでもされたら簡単に刺されてしまうし、実際にそういった事件も過去にはあったらしい。教える側も命がけである。おのずと人を良く見て、接することになる。これはあまりに極端な例かもしれないが、教える側と教わる側に、ある一定の緊張感が存在することは大切なことである。

友人と電話で話していたのだけど、教わる側がとても甘いことが多いのではないかということである。こちらは仕事を覚えてもらいたいし教えたいと思っていても、教わる側がそれを当たり前だと思っていることが多々あり、一度言えば分かることを平気で何度でも聞いてくる。おたがい仕事をしているわけだから、いったん手を休めて対応しなくてはならず、無駄な時間を使うことになってしまう。そういったことに想像力が働かず、教えてもらうことを当たり前だと思っている輩がとても多いということだ。分からなければ何度でも聞くことは大事だと思うが、自分の覚えの悪さを恥ずかしく思い、必死になる必要はあるだろう。

僕はデッサンを最初に学び始めたとき、とても厳しく鍛えてもらった。その過程で殴られたこともないし、物が飛んできたこともないけど、画面に向かう姿勢や態度、道具の準備と片付け、指導してもらったことに対する感謝の言葉、こういった基本的なことを、繰り返し厳しく言われたものである。道具もきちんと整えられていないといけないし、カルトン(紙製の画板)に紙をセットするときも、1mmの傾きもないように気をつける。自分の目の前にある画面全てに責任を持つわけだから、相応の緊張感を持って向かっていかなくてはならない。紙もちょっと失敗したぐらいで、すぐに変えるわけにはいかない。自分が納得いくまで、その紙が限界と思われるまで真摯に描き続けなくてはいけない。いままで自分が描いていたものが全く別の物になってしまうぐらい描き直されたこともよくあった。内心、腹の立つこともあるのだけど、納得できる部分も多く、自分の至らなさを実感し、指導してもらったことに感謝することを自然なこととして受け入れていった。
絵を描くのには技術が必要である。技術の土台のない個性などいらない。僕が絵を教える限りは、きちんと基本的な技術を教えることを主眼にする。これは上手い下手の問題ではない。言語の文法を学ぶように、美術にも学ぶべき文法(技術)があると思うのである。
「自由に絵を描きなさい」。これほど投げやりで無責任な態度はない。「自由に絵を描きなさい」。プロにとっても難題であると、僕は思うのだけど。
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ちょっと更新が遅れ気味ですね。応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 2006年7月10日 23:49