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2005年11月30日
僕が受けた美術教育3
このタイトル、前回で終わりにしようと思ったのだけど、「大学のはなしを」というリクエストが多かったので、もう少し書いてみることにする。
そこで、まずは芸大受験について。
僕は大学受験を二度経験している。幸い一浪で合格出来たので二度なのだけど、文字通り二度しか受験をしたことがない。美術系大学は首都圏にいくつかの私立大学もあり、通常は複数の大学を受験する。しかし、そのためには受験料や合格したときに支払う入学金など、多額の費用が必要となってしまう。さらに私立の美大は、ものすごく授業料が高い。支払っていくには家庭がある程度裕福か、相当のバイトをしながらでないとやっていけない。
最初から志望校は芸大以外に考えていなかったので、それ以外の大学は一切受験しないということを決めていた。
親にも心配されたが(私大に通う授業料のほうがもっと心配かけるはずである)、受験料を出してくれる余裕があるなら画材代に全部回してくれとお願いした記憶がある。(これは浪人の時)
別に自信があったわけでなく、行きたいと思う大学以外に行きたくなかったという、単純な理由からである。
僕は絵画科油画専攻を受けたのだけど、定員60人のところへ2000人を超える受験生が集まる。芸大自体全学生を合わせても2000人ぐらいだと思うので、受験日は異常な人口密度になる。
現役の時は、完全にこの雰囲気に飲み込まれてしまった。受験をするという、覚悟がまったく足りなかったのだ。精神的に浮き足立ってしまっては、経験を積んできた浪人生に敵うわけがない。もっともその前に自分に負けてしまっているのであるが。
あえなく実技一次試験で不合格である。
僕の時の受験内容を簡単に説明すると、1月に共通一次試験。国語とプラス一教科でいいという、お馬鹿さんいらっしゃいと言わんばかりの楽さ加減である。次は実技試験だけである。まずデッサンの試験、素描1、素描2の2点を制作しなくてはならない。初日に素描1(4時間)、二日目と三日目に素描2(8時間)を行う。課題は毎年まちまち、担当教官によってがらりと傾向が変わる。
この実技一次試験に合格すると(ここで2000人が300人ぐらいになる)、実技二次試験で油彩を描くことになる。これは二日間(10時間)で一枚を仕上げる。これまた課題は毎年まちまち。
僕が受験生だったときの油(絵画科油画専攻の略)というのは、素材はなんでもありの野放し状態という時代であった。
素描はモノクロであればなんでもよし。ただし紙は支給された木炭紙を使用する。
油彩ともなると、油彩の画材だけでなく、アクリル絵の具、コラージュのための写真や色紙、果ては焦げ色を付けるための「ガスバーナー」なんていう飛び道具まで出現する(これは素描の試験だったかな)。当然、試験官からは注意が入る。(隙を狙って使っていたような・・・)
こんな調子なので受験のための荷物が膨大な量になる。段ボールに満載した画材を、おばちゃんの買い物御用達キャリアーにゴムバンドで縛り上げて、家と試験場を往復するのである。電車のなかで出会えば、臭いは汚いは殺気立ってるはで、まったく困った集団である。二度と経験したくないものである。
試験日の3月というと、まだ寒い時期である。試験場は暖房と受験の熱気で、かなり暑くなっている。試験場となる絵画棟は8階建てのビルで、試験当日はエレベーターの使用は禁止である。先ほど書いたくそ重たい荷物を、全て自力で運び上げなくていけない。低層階が試験場の受験生は多少ラッキーではあるが、あまり関係ないだろう。男性も女性も同じ経験をしなくてはならないので、自然と女性はたくましくなる。
僕が受験生の時は違ったのだけど、課題がヌードモデルだったいすると、室内の気温はさらに上がる。モデルが寒くない温度に設定しなくってはならないからだ。これが油彩の試験だと凄いことになる。テレピンなど揮発性の高い油を使用するため、室内にはものすごい臭いが充満するが、室温を下げないためにも、換気を最低限にとどめなくてはいけない。
そんな状況でも受験生は神経張りつめているので、もういけいけどんどん。一番最初にまいってしまうのが、モデルである。必ず何名か倒れてしまう。そうするとモデルを補充しなくてはいけなくなるのだけど、一部屋二部屋だけモデルが代わることは公正ではないということで、全ての部屋のモデルをスライドと補充で入れ替えてしまうので、午前と午後でモデルが代わってしまったり、一日目と二日目で代わってしまうこともある。
まったく体型の違うモデルになってしまうこともあり、受験生には柔軟な対応力が要求される。
僕が受験生だったときは、こういった感じであった。
たまたま僕が入学したのは平成元年だったのだけど、入学願書は64年度生ということになっていた。昭和天皇崩御により年号がかわっため、試験当日は元年度生のための受験となっていた。ちょうどこの時期、手塚治虫が亡くなったこともあり、非常に印象に残っている冬だった。
大学で一番楽しんだのはオペラの舞台美術であった。芸大は美術学部と音楽学部からなる大学である。僕が入学したとき、ちょうど「東京芸大オペラプロジェクト」が発足し、有志を募っていたのである。
卒業までに関わった演目は「ラ・ボエーム」「ポーギー&ベス」「コシ・ファン・トゥッテ」「蝶々夫人」「ドン・ジョバンニ」である。
こんなことをしていると、自然とそれ以外がおろそかになっていくのだけど、僕の場合は学科の成績の酷さに表れたかもしれない。ぎりぎり単位を落とさないところまでさぼり、ぎりぎりの成績で単位をとる。不真面目な学生であった。
学校にはよく泊まっていた。学内にシャワーの設備もあるので、洗面道具と着替えさえあれば、わりと快適に生活することができる。夜中でも食事できる店も周囲に多く、食事を済ませたあと塀を乗り越えて学校に帰るという生活が日常であった。特筆すべきことはこんなところである。また気が向いたら少し書くかも。
このころは恐竜にも古生物にも、まったく興味がなかった。僕が恐竜や古生物と出会うのは1996年。
上野にいながら、ほとんど国立科学博物館に行かない人間だったのである。
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投稿者 corvo : 2005年11月30日 00:33